収穫

去年の9月に植えたブロッコリーがすくすく育ち、私の拳を2つ合わせたくらいの大きさになった。ついに収穫の時がやって来た。

動画で収穫の仕方を学んでから、慎重に包丁で切り取る。周りの茎に、幾つもの小さなブロッコリーがついていて、これも食べれるらしい。

スーパーでしか買ったことが無かったブロッコリー。まずよく観察する。

つぼみの先端部分が紫色、茎に近い方が濃い緑色。太陽の光をたっぷり浴びた証拠だ。

アントシアニンも期待でき、茎も柔らかくオリーブオイルで炒め食べた。

これまで無事に育ってくれたお礼を、心の中で言いながらしみじみと味わった。

小さな苗から育て、害虫がいないか?、水は足りてるか?、肥料はいつやろう?

などと毎日気にかけながらお世話した。自分の分身の様な存在になっていた。

食べるのがもったいない気がしたが、美味しく食べて自分の体の栄養になれば

ブロッコリーも喜んでくれるだろう。

私のマイ菜園には、他にも芽キャベツ、玉ねぎ、スナップエンドウ、そしてイチゴが現在進行形ですくすく成長している。特にイチゴの収穫を楽しみにしている。

野菜作りは、土壌の育成、野菜クズや米糠を利用した肥料作り、害虫対策など多岐にわたってする事が多く、奥深い。

飽き性の私が、当分続けられそうだ。

猫との暮らし

我が家には、かつて2匹の猫がいた。

それぞれ18歳、14歳で虹の橋へ旅立った

犬は飼育したことがあるが、猫を飼うのは

始めててだった。

最初に我が家にやって来たのは、ラグドール種の女の子。ブルーの瞳を持ち、フワフワの綿毛のような毛を纏い

天使が空から降りてきたような子だった。

しかし、見た目とは違いかなりきつい性格だった。抱っこが嫌いで、あまりの可愛さに抱き上げると猫パンチをくらうこともしばしば。

気に入らないとシャーシャーと威嚇の連発。以前、飼っていた犬とのあまりの違いに驚いた。

猫はそもそも、犬とは違い、、単独で生きる動物。犬のようにリーダーに従ったりはしない。しかも、飼い主は猫の魅力に取り憑かれ、あっと言う間に猫様の従僕になってしまうのだ。

まさに、猫が人間を飼育?しているのだ。私は彼女のご飯係と身の回りのお世話係に任命されたらしい。

たとえ、理不尽な猫パンチをされてもいそいそとご飯の準備に取り掛かるのだ。

そんな生活から、4年後縁あって今度はメインクーン種の男の子がやって来た。

とても、温厚な紳士で人間や先住猫への挨拶も欠かさない律儀な子だった。

毎度、先住猫からシャーと拒絶されてもめげなかった。彼は、フレンドリーで静かな飼い猫の模範のような子だった。人間にも、べったりでは無く、彼なりのポリシーかあるらしく、きちんとと距離をとって行動する子だった。

最初は、まったく別々の部屋で暮らしていたが、晩年は距離を取りながらも同じ部屋にいた。よく動画などで、ひとつのベッドで「猫団子」になっている様子が上げられているが

我が家の猫達は、先住猫が虹の橋に行くまでそんな光景は目にしたことが無かった。本当に、猫と言うのは、とてもそれざれ個性があり一緒に暮らしてみないとわからない。

猫と暮らして、学んだ事は理解出来ない行動も「猫には猫の理由がある」と言う事。これは人間の世界を生きる上でも多いに役立った。時には、他者の視点に立つことの大切を学ぶ事ができた。

今振り返ってみれば、お世話は大変だったが、皆良い思い出だった。そして、家族となってくれた猫達に感謝の思いが一杯だ。

もうすぐ、天使?だった子の命日がくる。

横山大観

先日、外出先で偶然「横山大観展」の案内ポスターを目にした。

一度も名前を聞いた事がない美術館だったが、時間もあったので行ってみることにした。

美術館は、和風の落ち着いた雰囲気で

小さいが中庭に、日本風な庭園が作られている。

平日の午後ということもあってか、鑑賞者も少なくゆっくり観ることができた。

以前、島根の「足立美術館」で始めて横山大観の作品を見て感動し機会があれば

もう一度作品を見てみたいと思っていた。

私が特に気に入ったのは「梅花」という作品。老梅のゴツゴツした質感や、梅の凛とした気品や風格を感じさせる作品だった。

正面、右、左と角度を変えて眺めるとまた表情が変わる。

「夜」という作品では、ミミズクが月を背景に竹林から顔を覗かせている。

「或る日の太平洋」という作品は、富士山を中心に描かれ、左側に大波、右側から龍が雲海から稲妻を光らせながら踊りでている。

大観の作品には、たくさんの動物が登場するが、どれも非常に愛らしい、愛嬌のある表情をしている。

先程の龍でさえ、笑っているような目をしていて、実に可愛いのだ。

きっと大観は、動物好きに違いないと思う。大観の作品から、感じられるのは懐の深さや人間としての温かみだ。絵には、人柄が出るものと思う。

私は、美術館に行くのが、好きで、好きな作家の作品があれば、遠方にも足を伸ばしていたが、

コロナになって3年ほどは、全く行けなかったので、この日は久しぶりに心豊かな日となり幸せだった。!

ハクセキレイ

最近、散歩の途中で「ハクセキレイ」に出会う。長い尾羽をピョコピョコ上下に動かして歩く姿が愛らしい、ハクセキレイによく出会う。

頭部と首回りが黒、背中はオスが黒く

メスは灰色。顔とお腹まわりは白色。顔を横断するような黒い線があり、長い尾羽は白黒混じっている。

あちこちせわしく、コンクリートの道路を歩き回る。エサを探してるのだろうか?

私は、このハクセキレイが大好きで密かに彼等を「セキちゃん」と呼んでいる。

ある日、往来の激しい道路付近を相変わらずちょこちょこ歩き回るハクセキレイを見かけた。

私は、怪しい人と思われ無いように辺りに人がいないのを確認して

ハクセキレイに話しかけた。

「セキちゃん、車が沢山いるから気をつけてね」と。

すると、私の話が通じたのか、単なる偶然か「セキちゃん」が急に立ち止まり、私の方に振り返ったのだ。

一瞬だが、可愛いつぶらな瞳見つめられてしまった。その後、すぐ甲高い声で鳴きながら飛びたったのだ。

調べてみると、日本書紀にも登場するくらい人との付き合いは古く

スズメやカラスの様に、人の作った穀物をエサにしないので、人から攻撃を受けた経験が無い。そのため、人をあまり恐れ無い個体もあるとの事。

ということは、あの「セキちゃん」が振り返ったのも、まんざら偶然ではないかも知れない。

今度、会ったら何と話しかけようか?散歩の楽しみがまたひとつ増えた。

イクメン

スーパーなどで、若い男性が子供をおんぶし、更におさない子の手をひきながら

買い物をしている姿をみていると

昭和世代の私は、感動すらしてしまう。

子育て中の私は、疲れからか、よく体調を崩し熱をだした。

自分の実家は、あてにならないので

夫しか頼る人がいなく、その為夫はその都度仕事をやすんでくれた。

聞けば、上司から「女房寝込んだから休むなんて情けない」等と言われ

今で言えば、パワハラだ。しかしその頃の時代は、とにかく男は、朝から晩まで会社で働くのが美徳とされる時代だった。

そんな圧力に耐えて、私の為に休んでくれた夫にはとても感謝している。

後で聞いた話しによれば、仕事の評価が下げられ、その為ボーナスにも影響したらしい。

とにかく、これが昭和という時代だった。今では、男性が育児休暇を取れる会社も増え、いずれは「イクメン」という言葉も

「死語」になる日も近いだろう。ただ、昭和の時代と違うのは、女性の社会進出が進んだ事だ。これからの、世の中の変化を楽しみにしたい。

移住

最近、都会を離れ地方に移住する人が増えているとか。

ネット環境さえあれば、仕事も学びの場も利用出来るので、これから更に増えてくるだろう。

私が、その昔子供の出産と同時に、全く知人ひとりいない見知らぬ町に

移り住んだのも、まさしく「移住」だった。

それまでは、都会ほどでは無いが交通の便もよく商業施設もそれなりに整った都市にいた。私の妊娠がわかると、夫の両親が

「社宅住まいでは、子供が可哀想」「早く家を建てた方が良い」

等と盛んに言うようになり、夫の両親がつてを頼って探した物件を見に行くことになった。

そこは、車で一時間ほどの場所で周りの田園風景の中に、その小規模な分譲地があった。

私は、道も狭くそれまで目にしたことの無い田んぼだらけの光景に、とても住む気になれなかった。

しかしながら、夫と両親が気に入り家の資金をかなり援助してくれることになり

スポンサーには、逆らえずあれよという間に建設の運びとなった。

新築の家で、夫は何時ものように出勤し

いつもの慣れ親しんだ会社に出向くわけだが

私は、乳児と二人、全く知らない町で過ごすことになり当時は、ネットなど影も形も無かったので、とても心細かった。

追い打ちをかけるように、玄関チャイムが鳴ると同時にドアノブをガチャガチャ回されとても怖い思いをした。

当時は、インターホンなるものも無く、訪問者は玄関ドアに仕込まれている丸いスコープで確認するしか術が無かった。それだけ、のんきな時代だったかも知れない。

後で知っだのだが、この地域は田舎のせいか日中は鍵をかける習慣が無かったらしい。

そんなある日、事件が起きた。いつもの如くチャイムが鳴リ、ドアノブをガチャガチャ回されたので、居留守を使った。

ところが、玄関横の通路から庭に回り込み

私達のいる部屋の前に、悪びれる様子も無く見知らぬセールスとおぼしきおばさんがニコニコしながら立っていた。

あまりの状況に、幼い子供がいるので

相手を刺激しない様に震える声で「なんの御用?」と聞くのが精一杯だった。今思えば警察案件だが、当時は田舎ゆえ庭に回り込んで世間話をしながらセールストークをする、というのも許されていたのかも。

私は、もう限界だった。すぐに夫に電話して泣きながら家中の窓と、玄関に防犯ベルをつけてほしいと訴えた。

それでも、段々と子供が成長しお話も沢山出来るようになると、家の近所を良く散歩した。ある時は田んぼの周りの雑草を摘み、オタマジャクシを見つけたり

冬の木枯らしが吹く時は、「北風小僧の寒太郎」を歌いながら。

梅雨の晴れ間の公園では、地面に家の間取りを描いて「ここは、お風呂」「ここは、台所ね」等と言いながらお家ごっこをしたり。「お風呂でゴシゴシ」と言いながら体を洗う仕草をする子供がとても可愛かった。

あれから月日が流れ田んぼが殆ど埋め尽くされ住宅地となりコンビニ、スーパー、病院などが立ち並び

以前の面影は、跡形も無くなった。田んぼの周りに住んでいたキジの親子もシラサギも沢山のカエルも消えた。

今思うと、田んぼはダムであり、生き物の生息地でもあり、生き物の命を繋ぐ役目をしていたのだ、としみじみ思う。

「移住」してきた頃の色々な出来事も

今や思い出となってしまった。

合わないもの

私は、お陰様で食べ物の好き嫌いが

殆どなく、大抵のものは何でも口にすることができる。

しかしながら、乳製品だけはどうも受け付けないようだ。

牛乳、チーズ、生クリームなどを使った食べ物ーピザ、チーズケーキ、ソフトクリームなど、何れも大好きなのだが、残念な事に激しい腹痛を起こしてしまう事が度々ある。

年に数回、奇跡の様に何事も起こらない事もあるが、用心しなければならない。

話は、随分遠い昔に遡るが、初めてのデートで、京都に紅葉を見に行く事になった。まだ、京都駅に今の近代的なビルが無かった時代の事。

京都駅から、バスで大原に向かった。あまりの紅葉の美しさに舞い上がり、ウッカリ禁断のソフトクリームを昼食の後、食べてしまったのである。

帰りのバスの中で、案の定お腹がシクシクしだし、だんだんと時間が経つにつれ、その痛みはまるで波の様に打ち寄せては、引いての繰り返しとなり、

私は、まるで修験者の様な形相で必死に痛みに耐えていた。初めてのデートの相手に「腹痛」を訴えるのも躊躇われ、限界か近づいてきたーその時

何とか京都駅に着いたのだった。脱兎の如く駅トイレに走る私に、さすがの相手も異変に気づきトイレを一緒に捜してくれ事なきを得た。

依頼、旅に出る時は、乳製品は厳禁となったのである。で、その時の初デートの相手と言うのが、今の夫なのであるから人生何が起こるかわからない。